先週末借りた本…
振り幅が大きすぎる…おやつ作りの本からブロックチェーン本、断捨離本…迷走してます…で、この借りた本のなかの「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」の読書感想文を。
ちょっと前までわりと書店で平積みにされていた、元祖ミニマリストさんの本。
断捨離気分に突き刺さる刺激的な文章を求めて、今日も読む。
(…実はこの刺激を求めて、ってのがモノをついつい買ってしまう元凶であることをこの本より知る。)
以下感想文。
そもそも欲しいモノは全部持っているはずなのになぜにまた買うのか?
モノもつ
↓
慣れる
↓
飽きる
↓
刺激としてまた別のモノが欲しくなる
↓
刺激の量増やしたくて、どんどん買う。
↓
いつまでも満足できずぐるぐる
…慣れ、という毒。
…まあわたしが断捨離本に刺激のある一文を求めてる。ってのも、この特性になぞらえると、
断捨離本に書いてあることは捨てろ。のひとことに尽きるってのはわかってる。
本から得られる新たな情報はもうない。
でも、刺激的な文章求めたい。何かがあるはず。
こんなとこだと思う。
この先も慣れる、飽きるってわかってるのになぜにモノをまた入手するのか?
人間は未来の感情を現在を元に考える。という人間らしいわね~の一面よりこうなってしまうらしい。
おなかがすいていてスーパーにいくと、ついつい買いすぎちゃう。とか。現在の感情を元に未来のおなかの具合を誤って予測してしまうから。みたいな。
「冬の暖かな暖房のぬくもり。」を真夏に想像できないとか。
分かり切っていることでも現在を元に未来を予測してしまうから。
なので、飽きると判っていてもモノに手を出す。
この本でもこのぐるぐるループとのおつきあいをどうすべきか?的なことは書いてなかった。
わたしなりに出した解は、
・脳の特性なんだからしょうがない。飽きたらいさぎよく捨てる。
・だって、人間だもん。という諦め半分、でも買うときは相当悩んで買う。
こんなとこかな。
心にささった文章
「慣れ。はモノとの付き合うという部分においてはやっかいなもの。」
「熱く語れないモノは捨てる。」
「自分が必要なモノを持っている」と自覚すると広告等に惑わされなくなる。「自分には足りないモノがある。」と思うとあらゆる広告が自分に向けられているように感じる。」
本を読みながら、チャゲアスの「YAH YAH YAH」の歌詞が頭をよぎる。
「必ず手に入れたいものは、誰にも知られたくない~」っていうとこが。
…